行者石像研究日誌 6(令和3年9月24日 蘭酔77歳)

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行者石像研究日誌 6

共同調査者の芦田成人氏より

今日、共同調査者の芦田成人氏より、「昨日九月二十三日(秋分の日)大峯山寺戸閉に登拝した」との連絡があった。昨年来のコロナ禍で恒例の伝統的儀式は困難であるが、午後一時より儀式と護摩があり、八十名位の参加者があった。当日は祭日で天候も良く一般の登山者も多かったとの事。オリンピック・パラリンピックも無事終わり、自民党総裁選・衆議院選挙も近い。

 さて、私の調査は六十歳より出発して、今年喜寿を迎えたが、だんだん活動が鈍った。好運にも芦田氏が調査を継続してくださっている。凡人やはり年と共に懈怠(けたい)の心が生じるのであろう。初期にはかなり熱心であったが今では過去の思い出となった感がある。私の大峯山引退の令和元年、家族の協力で『平成の大峯山』が出版できた。その第五章に、初期役行者石像五体と偶然発見の三体の蔵王権現石像(奈良県生駒市有里町・竹林寺)を掲載できた事は、今となっては嬉しい。

 石像の本は古書店で見つけると、すぐ買って帰ったが、役行者はごく稀に紹介される。『日本の石仏』(日本石仏協会2012No144冬 特集)【役行者・蔵王権現】を見ると、全国に多数の像があり、自分の調査など、近場の趣味の散策だ・・・と思うようになり、年を加えるごとに目的意識が遠退き、脊柱管狭窄症により、弱気になってしまった。今年六・七月より回復したのか、試しに愛宕山(山城と丹波の境界924m)に登拝した。何とか三角点まで登れたが、下山は足腰が・・・体力の低下はやむを得ない。

   岳久遠上がれば下る人生のおのが齢をおのずから知る

と詠んで自身のブログ(愛宕山登拝記)に掲載した。

このままで良いのか・・・と自問する

 昨今、このままで良いのか・・・と自問する。初心に還る・・・時間は十分にある。体調も少し改善、初心を成就すべく心して往年の調査を整理し、記録として残しておきたいと思う。有終の美ならず木をみて森を見ずの独断と駄法螺吹き自認の講釈調にて自由に書き残し、今となっては忘れ去られていく、役行者石像に思いを馳せ、最終の日誌としようと思う。

 世の中が開け進み、生活が発展充実し、その過程で学問・芸術・道徳・宗教などの諸活動を「文化」とすれば、人類の営みの中で生み出した、人の人たる要素で、その時代々々に「楽しい事」を単純に文化と考えても大きな間違いではなかろう。

 私が今日、身近に日本の宗教を概観すると、全国津々浦々到る処に神社・寺・お堂・祠・石像等が存在する。我々は何故社寺に詣でるであろうか。建築・仏像・庭園を見学し、単なる散策だけではあるまい。初詣は言うに及ばず、伊勢・熊野・愛宕等、近在の社寺・旦那寺・名所旧跡等々・・・又三十三ヶ所・八十八ヶ所の巡礼、この行動は義務で行われているのではなく、では伝統・習慣か、何かの力によって強制されているわけでもない。その行為には何か「楽しい思い」があるに違いない。

 私にとっては大峯山や著名な名山に登拝する事は楽しい事であり、山頂には必ずお堂や祠があり、山を修行の場とする者にとっては勤行の場であり、ごく一般の登山者にとっても、自然と詣でる心持になるのではなかろうか。今の今自分が山に登れた事が大自然と先祖のお陰であるのが理屈抜きに感じられるからであると思う。

 「山」は日本人の宗教意識にとっては、古くは此岸の世俗の人々には平野より仰ぎ見る神聖なる所で、精進潔斎して登拝すべき最終地点であった。山頂は奥の院として表象され、現世の背後にある彼岸として畏怖され、又未知の世界として何やら有難い所であるのかも・・・と想像され、日本人の我々にとっては、自分に対する存在としての神仏というよりは、自分を包む存在としての大自然ということが宗教の中核に内在しているのではなかろうか。山を不可視の神の存在を可視的な仏・菩薩の形象としたのが、山越阿弥陀図や山をベースにした種々の曼陀羅なのかもしれない。柳田民俗学にも里に近い山よりご先祖が来訪し、いずれ生ある我々も山に帰って先祖と一体化する・・・という漠然とした循環の思想をなんとなく納得して、阿弥陀の浄土に親しみを感じたのかもしれない。

私は昭和十九年生、七十七歳

 私は昭和十九年生、七十七歳、父は戦病死、母が助産婦で多忙、祖母にお世話になった。幼き頃の村の神社のお祭りの獅子舞・天狗が出てきて竹の(ささら)でお尻を打つ・お稚児(ちご)さんの行列など、少し長じて寺の掃除のお手伝いに、宗派は浄土宗で、分家であったので主家にも仕える祖母はご苦労であったと今にして思う。

 神社や寺の行事は当時の人々にとっては非日常的な楽しい事であり、婚礼・葬儀・年忌・子や孫のお宮参り・七五三などや、他の年中行事も一年の時の流れに変化を与えていた。お正月とお盆は現代でも不変の我国の重要な行事である。

 高校卒業後大阪に出たので、当時の地元の宗教的諸活動には関心がなく知らなかったが、民俗学の書物を読んで調べると、やはり『講』や『宮座』も存在していたことが解った。例えば蹉跎神社(天神さん)のすぐ近くの寺の境内に行者祠があった。お寺に法螺貝が伝わっていた。大工の棟梁の家が講元であった事も確認できた。

 時代と共に村々にも変化が生じ、社寺詣や伝統行事も転変する。地域により差異もあるが、個人の宗教観・価値観の相違はあっても、やはり先祖と神仏崇敬の心は日本人として共通性があろう。これは我国が島国で比較的温暖で四季があり、山地の多い自然豊かな国土で、外国との接触・交流も少なく、神武天皇以来の天壌無窮の豊葦原の水穂の国の国民であるからであろう。

人間、成すべき事は成さねばならないが、

 人間、成すべき事は成さねばならないが、楽しくない事は進んでやりたくなく、長続きしないのが人情であろう。平安時代より日の本の神と仏との習合が進み、さまざまな意味を含みながら展開した。仏教も土着化することによって、死後の極楽浄土・葬送儀礼・死後の供養など宗教文化が定着して、令和の今日までほとんど変化せず続いているように思える。我国は権威と権力とが二種の構造になっていて、権力が国の根本的基礎を毀す事がなかった。革命的な信長さんでも天皇を尊重した。お隣の国では歴代王朝が変わり、今日では一党独裁の個人強権で言論・思想の自由どころか信仰の自由もなくなる。

 我国は戦後、米国より今思えば不本意な政策を施され、当時の指導者の不適切な対応もあったが、その後一九六五年の東京オリンピック・一九七〇年(昭和四十五年)の万国博覧会・・・これらははっきりと記憶にある。この年、三島由紀夫氏が切腹自殺、当時は深い意味が解らなかったが、今にして思えば・・・なるほど・・・と理解できる事もある。それは無機質・機械化・マニュアル・システム化が良しとされ、物質文明が人々の属する土地や本来の居場所から切り離され、国体の欠如・国防の弱体化・・・外部の圧力(GHQ)によって変質させられ、彼の内在する常人には理解困難な・・・これ以上生きる事に限界が・・・と思わしめた行為であったのであろうか。最後の最後まで緻密に計画された企てであった。

 この頃の大峯山は私より半世代・一世代前の大峯山大好き男が沢山いて、大峯山寺を護持する「阪堺役講」・地方の講・地元の熱心な信者が多数登拝し、登山口の(どろ)(かわ)も大いに賑わった。当時の道路には今日のようなトンネルはなく、いくつもの峠を越えなければならず、洞川で一泊しないとお山に上る事は困難であった。本格的行者は吉野や他の修行道を通って入山したものだ。私は昭和五十三年(三十四歳)が初登拝であったが、その後先達に導かれて「笙の窟」・「釈迦岳の尊像」・「経函石」等を拝して入山した事など、今となっては懐かしい思い出である。この頃は新聞やニュースでは必ず戸開・戸閉の儀式は報道されたものである。

山折哲雄先生の『仏教の基礎知識』より

 山折哲雄先生の『仏教の基礎知識』(角川書店平成十二年)によれば

日本仏教の特質

第一 神仏との習合
第二 インドの仏教は縁起・空の考えと無我を強調
・・・しかし日本では無心・無私の境地を重視する傾向
第三 禁欲的な修行至上主義より、万人成仏主義を強調する傾向
「一切衆生悉皆仏性」
「山川草木悉皆成仏」

大峯山役行者大好き人間にはなるほどと納得。

 『続日本記』の記載以来、役行者が修験道の元祖となって、我々日本人の人気者になった。役小角=(役行者・役()()(そく)・行者さん・神変大菩薩・役尊)関係の事柄は極めて膨大であり、近年における書物だけでも枚挙に暇なしである。

 たとえば大峯山(山上ヶ岳)登山口の洞川出身の銭谷武平氏(一九二〇年生)だけでも、役行者関係の書三冊、他に大峯関係のが数冊あり、高名な宗教・民俗学の先生にはそれぞれの名著がある。役行者・神変大菩薩一三〇〇年遠忌記念『役行者と修験道の世界』一九九九年の展覧会は記憶に新しい。

駄法螺を披瀝

 次に私の講釈的思い付きの駄法螺を披瀝
修験は宗教活動で山岳(自然)を抖擻(とそう)する修行であれば元祖はそれを発明した役行者は「メーカー」物に例えれば「車」で、我々の先祖も含めて、その車に乗る人(修行者)は「ユーザー」、楽しく(苦しく)修行して諸山を踏破。お寺や講はそれらを世話する「ディーラー」で先達は「ガイド」、結果として役行者は「アイドル」となる

 修験道は密教と関係が深く、山岳を曼陀羅と見立てるという発想で、根本思想や儀礼は峰入り修行による即身成仏で、峰中で得られた験力を示す事であったが、時代が下がり大衆化・世俗化して、体験・実践的な男の生き様の一つの信仰形態として、他の色々な要素とも結びついて伝わったのである。

 これ又、私の勝手な駄法螺であるが、それを端的に示す(のぞき)の行(山上ヶ岳・西の覗)で修行者を吊り下げる行で

  ありがたや西の覗に懺悔して

        弥陀の浄土に入るぞうれしき

 行を終えた時の秘歌で、これぞ自然・祖先と自己の彼岸に対する楽しい締観の歌ではなかろうか? この修行は「即身成仏」「逆修」である。若き日にはこの修行を体験して、「ああー恐ろしかった‼」と思い、特に何も思いを深める事はなかったが、弥陀の浄土に近ずく年になって、この得難き記憶が明晰に脳裏に残っていることが不思議なくらいである。

 神仏習合は中世において今日の我々の思い及ばない雄大・多様な構想であり、それは神仏一体でなく部分的に融合して、他面では独立性を保ち時代々々には差異はあったにしても、現在まで続いていて何の不都合も感じない。役行者が金峯山で感得したとの伝承の蔵王権現の様な独特の尊像も生み出され、土着的要素も容易に受け入れられた。

 吉野裕子先生のご本『古代日本の女性天皇』(人文書院・二〇〇五年)によれば、
「私見によれば、この尊像のなかに、吉野のもつ呪術性はすべてこめられているといっても過言ではない」とある。

 江戸時代の後半の幕藩体制の推移によって常民の生活も神仏詣も可能となり、厳しい修行の名残も少なくなり、大峯山や他の霊山に登拝が一般化し、先に述べた準宗教行事(活動)に共感して、その役行者の尊像(木・石・銅像)を大峯山の思い出・憧憬・自己の修行・鍛錬・男としての自己のアイデンティティ・通過儀礼・町や村の男の団結・男振り・・・等々の正に大峯山は男達にとっての楽しい(苦しい)リクレーションであり、精神的・肉体的にも新しい力を盛り返す事でもあり、見方を変えれば非日常的な休養でもあったのである。

 石像は室町時代より出現したが、江戸時代の後半より各地に造立された。平成に至り数カ所の造立が知られるが、令和に入り先祖が各地に残した像は忘れ去られ(すでに全く忘れられている)つつあるが、不易流行の歴史に於て修験の心は宗派を越えて伝わるであろう。

 私はこの国に生を得て、大峯山(役行者)大好き人間になったが、「弥陀の世界に入る・・・」の歌と、これ又大好き西行さんの

   入日さす西のあなたは知らねども

           心をぞかねて送りおきつる

の歌は「われ思う故に我あり」とする自我心の認識よりも、もし霊ありとすれば、靖国神社の霊を「一柱」と称するごとく、先祖と神仏の加護に感謝し、ほど良く西のあなたに行けるようにと望んでいる。我々の先祖は驚くべき石像等をも各所に造立し、その気宇と構想と労力には表現する言葉もない。その石像に込められた心に思いを致したい。

 大峯山登拝はもう無理であるが、近辺の山で役行者石像にお会いした時など、勤行して法螺を吹きたくなる私なのである。

    駄法螺吹きやたらと吹いて顰蹙(ひんしゅく)

    有難き御世に生かされありがたし

        彼岸に至りてありがたしかな

 晩年に向かい老境の心持も少しづつ解りかけつつあるが、最終研究日誌を自由に記して、これにて一区切りとしたい。この調査にお世話になった諸兄に感謝

終わりに

終わりに 往年の作

    旭日の八経峯に風涼し

        我吹く法螺が雲海に舞う


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このブログの著者

昭和19年(1944年)3月24日、大阪府枚方市生まれ。平成の御代、大峯山登拝修行に専念し、75歳で引退。令和元年(2019年)に自身の修験と法螺にまつわる手記をまとめた著書【平成の大峯山】を出版。現在は法螺貝と蘭と酒を愛す毎日。ただいま役行者石像の研究に没頭し、研究成果の出版本を準備中。

法螺貝研究所
〒564-0061 吹田市円山町5-3
TEL.06-6386-6500
メール:hira_hira@iris.eonet.ne.jp

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