女性ご遠慮のお山「日の本(ひのもと)」にあり

大峰山 ご来光

 今日は、本日はでしゃばり、講釈男が(日の出の如く出現いたしまして)お山のお話をさせていただく事になりました。日本は有難い四季があり・山地の多い国で・南北に長い・海に囲まれ・緑の豊かで気候温暖な「(とよ)葦原(あしはら)の国」であります。※(とよ)葦原(あしはら)の国:日本国の美称

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本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)

古事記・日本書紀・・・・以来、神様が多い国でありまして、聖徳太子の頃、仏教が広まりまして、今では我国に主なる宗派だけでも13宗あるそうです。平安時代、空海・最澄さんの頃から我国の仏教の教えも多様化いたしました。それに神様とも関係が生じまして・・・「神仏習合」であります。「本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)」と申します。奈良時代より発生した神祇と仏教との習合の思潮で平安時代に盛んになりました。例えば、八幡宮の本地は八幡大菩薩だとする信仰です。熊野本宮証誠殿は阿弥陀如来とか、本地である仏・菩薩が衆生を救済するために、仮の姿(神)として現れることです。この時代の頃から修行者が山の奥地や海岸の洞窟で修行する事が流行しまして、たぶん空海さんも中国へ出張される前は、この様な活動をされていたと考えられています。

 当時先進国の中国とは遣隋使・遣唐使・それに学者・僧・工人等の交流もありまして仏教以外にも、中国の制度・哲学・陰陽道・道教・易学等の導入により、その良い所を採用して我国の体制ができました。宗教界では、お経を勉強するだけではなく、実践的な修行を求める人が出現し、修験道が発生、成立したのです。それに、人類に普遍的な自然宗教である「アミニズム」の要素も深く関係していると考えられます。※アニミズム:宇宙の万物に霊魂が宿るとしてそれを崇拝する原始信仰

修験道て何?

今日では、修験道て何? 修験者(しゅげんしゃ)山伏(やまぶし)験者(げんじゃ)と言っても何の事か解らない人が多いと思いますが、昔の時代劇の映画によく出てきます、有名な歌舞伎の勧進帳の弁慶さんを思い出して下さい。現在でも主として、真言・天台宗のお寺では柴燈(採燈)護摩供が修されます。※柴燈(採燈)護摩供:崇拝対象の前の護摩壇で所定の作法に従って唱えごとやお経や印を結び、井桁に組んだ護摩木を焚き願い事の達成を祈る(屋外で行われる場合)

今日では桜で有名な奈良県吉野山でありますが、ここが修験の活動の中心でありました。蔵王堂は奈良の大仏さんの家の次に大きな木造建築でして、お堂の中に入って見てください。巨大な3体の蔵王権現像が恐い顔して右足を上げて立っていらっしゃいます。先に申し上げた、神仏習合の我国独自の尊像であります。吉野と言えば古い話ですが持統天皇が在位中 31回ほど吉野に行幸されました。場所は今の山の上でなく青根が峯の見える宮滝の離宮跡と推定されています。

 平安時代の熊野詣も「蟻の熊野詣」と申しまして大流行したのです。後鳥羽上皇だけでも30回、バスも電車もない時代にお伴も大変だろうと思います。藤原定家さんに「後鳥羽院熊野御幸記」という書き物が残っています。

大峯山脈

 吉野と熊野が山の道で結ばれたのが紀伊半島を南北に走る大峯山脈であります。1300年ほど昔、役行者(役小角)によって開かれた・・・となっております。実は持統天皇と役行者は同時代なのです。吉野裕子先生のご本で「彼は金剛蔵王権現の生みの祖であるが、この蔵王権現こそ吉野山のシンボルであって私見によれば、この尊像の中に、吉野山の持つ呪術性はすべてこめられているいっても過言ではない」と述べられています。[古代日本の女性天皇2005年人文書院]この吉野山より今では歩いて8~10時間の所に山上ヶ岳(1719m)があり、頂上に大峯山寺が開闢(かいびゃく)されたのです。「金の御岳」と申しまして藤原道長さんも寛弘7年(1007年)に登られ、国宝になっている経筒を埋納されました。源氏物語にも出てまいります。一番近い登山口の(どろ)(がわ)から3~4時間です。

女性ご遠慮の山

 さてさて前講釈が長くなっておりますが、今日のテーマ《女性ご遠慮の山》の件ですが,正にこの山「山上ヶ岳」です。一般には大峯山と言われています。皆様もテレビか何かでご覧になったかも知れません。深い谷にロープを(たすき)がけにしてつり下げられる、これ男の修行で、新客(初めての登拝者)は必ず行をしないといけない事になっていました。「恐怖」の本質が体験できます。私にとっては今となってはよき思い出ですが、時代と共に登拝者も少なくなり、山守さんも不在でこの山の伝統も消滅するのかもしれません。

 昨今では5月3日戸開、9月23日戸閉の儀式があり、この期間が寺の戸が開いています。冬は深い雪になる事もあります。でも登山に際して、特別に関所や警察が見張っているわけではないので、この期間以外なら登れる可能性はあります。でも山好きの女性でもさすがにご遠慮されているのではないでしょうか。人の考え次第ですがやはり「タブー」と言う事はあるのです。山上ヶ岳の隣に稲村ヶ岳(1726m)があり女性大歓迎、その途中に突兀(とっこつ)とした恐い梯子(はしご)で登る大日山があり大日如来がいらっしゃいます。※タブー:禁制・禁忌・触れてはならないものや言葉

 令和元年(2019年)私は75歳で山を引退しましたが、後半の14~15年は戸開・戸閉の儀式には皆勤でした。もちろん途中女性に会った事はありません。頂上には100名以上泊まれる宿坊が5ヶ所あり。私が初めての登山は昭和53年34歳、55年に大先達に導かれて登拝。その頃より自営業になり、自由に活動ができるようになったのが今日に至り、お山の大将的な講釈とおしゃべり人間になったのかも知れません。

 この間に法螺貝と役行者石像の調査研究を私なりに取り組み、いつも«ホラ»を吹いております。私より一世代以上前の時代では大峯山で修行する事が男の重要な通過儀礼であった村もありました。七・五・三とか元服・十三詣りとか人生上における儀礼、子供と大人の中間点で山に登る習慣は全国にあったようです。

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このブログの著者

昭和19年(1944年)3月24日、大阪府枚方市生まれ。平成の御代、大峯山登拝修行に専念し、75歳で引退。令和元年(2019年)に自身の修験と法螺にまつわる手記をまとめた著書【平成の大峯山】を出版。現在は法螺貝と蘭と酒を愛す毎日。ただいま役行者石像の研究に没頭し、研究成果の出版本を準備中。

法螺貝研究所
〒564-0061 吹田市円山町5-3
TEL.06-6386-6500
メール:hira_hira@iris.eonet.ne.jp

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