令和四年五月二十八日
泉大津港より出発
令和四年五月二十八日、九州新門司港に我々大阪組十名は車二台で泉大津港より出発、天気晴朗、夕日の明石海峡大橋を通過し、早朝九州の土を踏んだ。
今回の目的は藤野先生の法螺講習受講と護摩出仕である。先生は法螺の大家で、同行者には高弟の方も、私は受講者の一員となり参加できた幸運を喜んだ。
宝満山の麓にある竈門神社へ
大宰府天満宮を参詣して、宝満山の麓にある竈門神社へ、護摩は五月二十九日(日)十一時に始まり、多数の参詣者が火渡りをされた。
法螺道の奥儀と実演
貴重な譜のコピーを賜る
先生の講話には、新潟の遠藤氏・岡山の松井氏それに団長格の南氏の知人が二人(一名は外国人)お見えになっている。先生より法螺道の奥儀と実演があった。三種の貝を持参され、
本山流(彦山譜)立螺音譜(令和元年記)
三井流立螺音譜
宝満獅子流 龍神の譜
峯中行道立螺の譜
それぞれ吹奏して下さり、貴重な譜のコピーを賜った。
法螺に対する認識が異次元で深まる
私は法螺友の美濃氏より藤野先生の事は聞き知っていたが、今回先生の謦咳に触れ、法螺に対する認識が異次元で深まった。昭和五十八年(三十九歳)に先達に導かれ、大峯山登拝を機に、法螺所持を思い付いたが、全くの一人稽古で今日まで来た。若き日には入門しようと思った時期もあったが果たせなかった。折に触れ先輩の方々に指導を求めたがーーーほぼ一人で山に登った様なものである。好奇心旺盛で講釈好きの性格が今日の自分であろうか、役行者石像と法螺貝研究をライフワークとしている。
今となっては法螺とご縁を得た事は人生の価値の一つである。若き日には苦労してチェロを手に入れ、先生についたが、勤務多忙のため続けることができなかった。今般、晩年に至り、怠惰な私であるが、自分なりの納得できる生涯を終われるか、修験での法螺にご縁を得た者として、褌をしめなければ・・・との心持ちになった・・・しかしすぐ緩んでしまうのであるが・・・
今回の研修旅行で気づいたこと
今回の研修旅行での、その時気付いた事を数日後の今日(六月一日)思い出した件を書きのこしておきたい。
下記3点を書き記す
一、護摩儀式の導師の願文奉読の少し前、南師が「脱帽・帽子をとって下さい」参詣者に浄めの水を撒いたがごとく号令、儀式が締まった。
一、これも南師のこと、護摩の炎・煙が盛んになった頃、各員自由に法螺を吹くよう小声で指示が伝わった。出仕者は法螺自慢の面々である。近くにいた私が甲音(高音)を少し吹いたが注意された。左前方の塩路氏は、しきりに甲音を発す。(金峯山寺流は高音を多用)当地では高音は儀式には好ましくなかったようだ。
一、藤野先生の講義で終わりの方の講話で、
①法螺貝の形状について(特に吹き口の形態)
「自分の貝を信頼できる上手な方に吹いてもらう」不調であればー持ち替えるか修正(修理)する。
[不調(不完全)な貝でお稽古しても上達困難]
②多くの人々が吹く機会には上手な人の音を参考にするよう意識する。
[この件は下手な人々の中で自分が上手だと思ってはいけない]との意であると思った
得難き機会に感謝
得難き機会に、得難き講話に接し、同行(同好・同類)との楽しい研修旅行で、私には価値がある旅であった。大阪に着し、近くのコンビニで昵懇を深めた。橋本直三氏(八十七歳)の“うるし”の話は彼の人生の歩みであり、高齢での参加に敬服した。お世話下さった方々に感謝
最後に二句
若葉敷く竈神社の森深み煙上りて法螺の聲かな
令和にて貝の好き者集いてや感得せしや日本心