令和四年七月一日、長女夫婦とその両親六名、車で徳島に向う。一泊して美術館へ。“凄い”とは知っていたが、想像を絶していた。
大塚美術館の感想
- 日本の一企業が・・・かくも精緻な複製品を再現し、拝観の構成や地形に調和した構造物、来館者への配慮・・等々、感嘆・驚愕・敬服・尊敬・・・表現する言葉もない。
- 西欧のキリスト教文明の偉大さは筆舌に尽くし難し。
- 過去の我国での著名な美術展を二、三百回、一日で鑑賞した感じで、大好きなご馳走を二、三ヶ月分を一日で食べた感じである。やはり私には日本の風土による神仏が在す自然と調和した「侘」「寂」が好ましいと感じられた。 (注:「わび・さび」は単なる私のイメージ)
さて、本題は美術館にあらず
先山・千光寺の事
帰途洲本に岩戸神社あり、と娘が見つけた。同行の富永氏と私は好奇心旺盛、細い山道を車で上へ登る。やっと発見したが、行ってみると細い山道を少し下って質素な鳥居があり、大岩があった。
さて、その帰りに道に茶店らしき家が階段の左右に二軒あり(かなり以前より使われていない)立派な石の階段である。そこが千光寺‼何も知らずに来てみたが、上ってみると大師堂・客殿・庫裏らしき建物、さらに上ると本殿・三重の塔。境内や階段は掃除されているが、近年、山にあるお寺は寂しくなっている。
早速、急いで拝観、人影は全くない、役行者像を捜した。三重の塔の後方にお堂があり、護摩堂である。戸は開いたが暗く、厨子があるが閉まっている。他に石像がないかと・・・お寺の方(女性)に聞いたが不明、時間もなく足早に下山した。本堂を少し下ると島を遠望できる建物があり、淡路島の半分をみる事ができた。
これより講釈
以前読んだ、濱岡きみ子著「先山千光寺への道」淡路の民俗文化を語り継ぐ(二〇〇九年)「古くから淡路は役行者信仰が盛んである。北から南、淡路全域にわたる信仰が続いている」
そのご本の中に、調査で判明した、「役行者祭祀場所」の一覧がある。約五十ヶ所、たぶんそこには役行者像(木・石)が存在する可能性がある。千光寺にも尊像が・・・今回は拝観不能であった。
本にある二枚の写真を紹介して、この記を終りたい。
- 千光寺へ神変大菩薩奉迎記念、行列をなす行者(大正十五年)
- 行者詣りの人が帰って来ると、出迎えの人々は路上にうつ伏せに並び、体の痛い場所を訴え、行者はそこに杖を当てて祈る。
注:神変大菩薩 = 役行者・役小角 = 修験者の開祖
寛政十一年(一七九九年)授与された諡号
行列は二百人以上か?うつ伏せに並んでいる人は二十人位
全くの私見ながら、大正十五年に役行者木像は千光寺に奉迎されたのであろう。
約一世紀の時の流れに、民俗文化も変遷する。ここ数年(令和二年より)コロナ発生・ウクライナとロシアの戦争(令和四年)等々、歴史は刻まれていくのであるが、日の本に生を得て、一日で世界の名画を正に堪能するなど、娘夫妻によって企画されたこの旅行に、晩年に至った者には、我国の自然・今の今、健康・先祖と神仏に感謝せずにはおれないのであった。
最後に句を
阿波にてや世界の名画訪ね来て思いもよらぬ御寺にぞ会う
みはるかす千光寺での展望に夏の雲にぞいにしえ思う
追加報告(めずらしい物を見た)
狛犬は唐獅子でもなく猪や
注:本堂の左右に鎮座、先山に猪の伝承あり [令和四年七月三日記]