今日(令和3年5月23日(日))私の法螺人生に思いもよらぬ事が出来した。家族旅行で京都動物園の近くに宿泊。早朝の散歩で南禅寺へ、早朝六時、人は居ない、寺の庭を七、八人の修行僧が草を毟っていた。若き日に訪れた思い出を回想しようとしたが、五十数年前の事である。例のレンガ造りの水路を見て確かな記憶が蘇った。
山より法螺の聲が…
その時、山より法螺の聲が、凄い名手、私は法螺の研究を自認している法螺吹き、その音の元を調べなければ合点がいかない。山の方へと登り進む、滝があるらしい。深閑とした森の中で男の方と遭遇。
「このあたりで法螺の音が聞こえたのですが?」
「私が吹いたのです」
「私は法螺を研究しておりまして・・・」
「どちらからお見えに?」
「吹田市です」
「吹田ですか、その様なお方がおられましたな・・・」
「歯科のお仕事しておられたのでは?」
「そうです、歯科技工士でした」
この御仁こそ南康晴師
なんと、この御仁こそ南康晴師であった。十年以上前か、大峯山戸開の堂内で偶然にも知り合ったM氏が南師と同道されて来訪された事があった。本山修験宗聖護院、正法螺師であり、M氏の師匠でもある。一度の面識でお顔を忘れていたのだ。 南師に龍神法螺を吹奏していただき、拝聴。[降龍・智龍・昇龍]三譜で、滝行の際に用いる譜であるとの事。私には難度が高く吹奏困難と感じた。「お稽古次第で吹けますよ」との事で、自筆の法螺の譜面を提示していただき、その蘊蓄に感嘆、敬服したのであった。
私とM氏は昵懇の仲、今年四月四日の大和川、亀の瀬での蔵王権現石像再興開眼・採燈大護摩に出仕、奉納の竹春座「仁〇加」の『勧進帳』にも共演した仲間である。それに、私が令和元年に出版した『平成の大峯山』に「法螺貝と私」と題する長文の法螺の論文を投稿していただいた。“心技体”の法螺師なのである。身近な同好者の内でも彼の精進、研鑽は卓越している。
M氏が新型コロナで入院
「八時にホテルに帰る」と言ったので、法螺に関する二、三のご教示を戴き山を降りようとしたが、この全く予期せぬ奇跡的邂逅をM氏にに伝えるべく電話を・・・と思い付いたが不携帯、南師の電話で通じた。傍で聞いていると何か不自然である。「ちょっと変わって下さい」何と‼奥様の声であり、M氏が入院。新型コロナが昨年来各国で猖獗を窮め、オリンピック開催にも不安の影を落としている。
翌日、帰宅して、M氏の携帯に電話
翌日、帰宅して、彼の携帯に電話をすると又も奥様が出られ、「心配ない」との事で一安心。この日は神戸三宮の融通尊寺の寺宝展があり出掛けた。駅前の店は休みが多く寂しい感じ。本堂に展示があり、何気なくご本尊の大日様の前に進むと見慣れぬ貝が置いてある。赤く塗られた木製の吹口で造りが見たことない細工である。ご住職の宇喜多師は善通寺派真言宗、法螺大好き住職である。
「この法螺どうしはりましてん?」
「今日、横山氏が持って来てくれましてん」
松井正巳が製作。不思議、昨日お会いした南師、松井氏、新潟の遠藤氏、大阪河内の塩路師とM氏、各位皆法螺の大家で奥儀を求める探究者なのである。
法螺の奇跡
この法螺貝は九州在住、三井寺関係深かった藤野先生のご教示より製作されたとの事である。この二日間の出来事は私にとって「法螺の奇跡」と思わざるをえない。早速この日の件を各氏に連絡した。昨年か、長女夫婦が私の蒙昧を開くためプレゼントしてくれたアイパッドでユーチューブでの法螺に関する見聞を広めている、講釈多い怠惰な私であるが「褌を締め直す」という言葉が脳裏に浮かんだ。
法螺を正しく習い、正しく伝える事がいかに難しいか、その伝統が今後いかなるものか、喜寿を迎えた私に再認識の機会となった。
「芸事は鑑賞するより自分で実践する」と若き日より心していたが、今となって法螺は私の人生の価値の一つである。
愛螺が私を講釈と駄法螺吹きにしたのかも?法螺友は私の宝である。
喜寿にてやのこり少なし駄法螺吹き
追記
この日(二十三日)は我が家の家族旅行で九十五歳になる家内の母を同行する予定であったが都合で断念。昼食後私達と長女夫婦四人は車、次女家族四人は徒歩、電車で帰宅。南禅寺東方山頂の将軍塚で法螺を吹いたら、円山公園にいた次女からメール「法螺の音が聞こえたと。(直線四、五百メートルか)
この話「ホラ」ではありません。
みはるかす山よりい出し螺聲かな
若葉の塚で四方に轟く