新型コロナに日常生活が翻弄されし感のある今日此の頃、今朝近くの公園の子供の遊具が使えぬまでの草深きをみて、公園前の府道の草取りの労を惜しまぬさる夫人を伴として、草刈り機にて一部除草。
元気者自認の愚生、今春脊椎狭窄症を発症、喜寿の警鐘か、ここ半月少し改善。シャワーを浴び、缶ビールを一献。
座右の『山家集』(岩波文庫)をパラパラ、ボロボロになっている。
「西」の歌三首。
月見思西ということを
山のはにかくるる月をながむれば我も心の西に入るかな
易往無人の文を
西へ行く月をやよそに思ふらむこころにいらぬ人のためには
観心
闇晴れて心の空にすむ月は西の山べやちかくなるらむ
次の歌は気が付かなかったが心に響いた。
暁念仏といふことを
夢さむるかねのひびきにうち添いて十度の御名をとなえつるかな
以前は深い意味が解らなかったこともあったが、何か解ってきたような気になっている。どうも自分の年齢と関係があるようだ。
入日さす山のあなたは知らねども心をかねておくり置きつる
これはよく解る。
ありがたや西の覗に懺悔して弥陀の浄土に入るぞ嬉しき
「大峯山(山上ヶ岳)西の覗の行場秘歌」
若き日、往年の登拝で合唱したこの歌は、他人事のように思っていたが、後期高齢者が喜寿を迎え、自己の人生を振り返って、喜んでよいのか悪いのか、西に向かっているのは間違いのない現実である。よき時代に生を受け、安心立命とはいかないまでも、御縁の有難さをじわりと感じるこの初秋の一日である。