吹田市のメイシアターでの音楽会の時、拓本愛好者の展示会が開催されていた。
その作品に
冴る夜はよその空にぞ鴛鴦も鳴く 西行法師
凍りにけりな昆陽の池水 中川一政
西行さんには最大の関心を持っている。当然昆陽池にある石碑に違いない。早速出掛けた。伊丹市(兵庫県)の昆陽池はかなり大きく、池の中には日本列島の島があり、水鳥の飛来地として有名である。この日は初めて見たカンムリカイツブリ四~五羽が双眼鏡で確認できた。
阪急伊丹駅より池まで徒歩で行き、どう探すか、道中考えた。池の西側の観察地でしばらく鳥を見ていたが、池を右、左どちらへ回るか、石碑の場所が不明である。右回りに進んで早くも五十mぐらいの林の中の地点に石碑が、不思議、それがなんと西行さん、早くも目的達成。西行さんが私を呼んだのか。帰りは池を三分の一周ぐらいすると、所々に型は種々であるが、『明月記』の一節とか、俳句とか・・・石碑は多数あるようだ。
碑の右側に小型の説明碑あり
西行家集山家集所載の和歌
書 中川一政(画家文化勲章受章)
昭和五十八年三月伊丹市文化保存協会
帰宅して『山家集』岩波文庫を調べたが見当たらない。
さえ渡る浦風いかに寒からむ千鳥むれゐるゆふさきの浦
が見つかった。
西行さんのおし鳥の歌は
つがはねどうつれる影を友として鴛住みけりな山川の水
山川にひとりはなれて住む鴛鴦のこころしらるる波の上かな
私は鳥好き人間で特にこの二首は西行さんの鳥の観察の深さと、おし鳥に寄せる自身の心情の発露としての歌で感嘆、感服している。この拓本の碑文の歌は山家集で見つからず他日を期すか。
いにしえを訪ね求めて昆陽に来て奇しきえにしに以心伝心(蘭酔)
次は「鼓が滝」
講談で高名な旭堂南陵師の門下、南北師の話を以前聞いて気になっていた滝。阪急川西能勢口より四つ目の駅に鼓滝駅がある。次が多田駅で一、三㎞西方に源氏縁の多田神社が鎮座する。
鼓が滝は有馬温泉の奥にもあり、四~五年前に調べに行った。温泉街より山へ一時間ぐらい歩いたか、川の流れの奥が滝で、左側に古そうな展望を兼ねた茶店があり、缶ビールとおでんを所望し、店主と雑談をした。もちろん情報収集である。その日は何曜日であったか、天気良好なれど他の人影はなし。今時この滝まで足を運ぶのは物好きかアベックだけかもしれない。
店主の話では二十数年以上前か、二人連れの西行さんを彷彿する御仁が訪れられ歌を詠んで帰られたとか。
先に記した川西市の鼓ヶ滝は桂米朝さんの『米朝ばなし(上方落語地図)』(講談社文庫昭和59年11月15日)にある。
伝え聞く鼓ヶ滝に来てみれば沢べに咲きしたんぽぽの花
南北師の講談では
伝え聞く を (音)に聞く
来てみれば を うち(打)見れば
沢べに を 川(皮)辺に・・・・と
おじいさん、おばあさんに修正され、その上小娘にも注文をつけられ面目をなくす・・という話であった。
この「鼓ヶ滝」の落語は米朝さんの本では、二段になっていて、前半は、まだ佐藤兵衛尉憲清という禁裏北面のさむらい。染殿前という宮中の内侍に恋をしておりますが・・・
阿漕が浦にひく網もたび重なればあらわれにけり
これは謡の「阿漕」にあるそうで、西行さんが「またの逢う瀬は」と問いかけに「憲清阿漕であろう」西行さんとっさには意味がわからず、そこで出家して西行という名前になり歌修行に全国を回ることになります・・・。と米朝さんの本にあります。今の我々にとっては、かなりの教養を必要とする話であります。
さて、川西市の滝の探索中に道の行き止まりの高台の一軒家で偶然当家のご婦人と親しくお話した中で、西行さんの石碑の話が出た。その石碑は猪名川に掛る橋(銀橋)が国道173号線との交わる北東の角の小公園の笹のおい茂った中にあった。
音に聞く鼓が滝をうちみれば川辺にさくや白百合の花
碑の裏側には、
「十二世紀の歌人西行が川辺郡と呼ばれたこの地を訪れ鼓が滝の美しい風景を詠んだが夢枕に土地の古老が現れその教えを受けてこの歌を残したと伝えられる。これに拠って全国の多くの人たちと企業、団体により「西行歌碑建立委員会」が組織され、ここに歌碑を建立した。 平成九年十一月三日 西行歌碑建立委員会」
この調査の日は、米朝さんの本にある地図をみてウロウロしたが不明、新しい道や家が建ち、全く地形が変わっているのか。でも山、谷、川の形は基本的には大変化がないと思いたい。滝は川にあり、谷に落ちた水であるので。
その地形を考え目的地に行くと、お寺がある。「妙宣寺、日蓮宗」その前方の家で折よく男の方が戸を閉めておられたので聞いた。寺の住職さん、三代目で五十歳台か、「この地は昔小川があり、寺の下に池が、今は埋めて公園になっている」「子供の頃他に能勢電のトンネルの入口あたりにも川の流れがあったように思う」
米朝さんの本を見ていただいたが不明。本では、昔は落差三十メートル、幅四メートルの滝だった鼓ヶ滝(川西市史編集室提供)とあり、写真もある。その本の記事の終わりのメモに「現在でも高さ十二メートル、奥行き九メートル、一辺二十二メートルの三角形に近い長円形の岩壁に一乗の水が落ちている」とある。
花部英雄先生の『西行はどのように作られたか』(伝承から探る大衆文化、笠間書院)平成二十八年八月十日、に記載はある。先生も平成五年の五月に訪ねられたとあり
「酔狂としか言いようのない西行を名のった僧衣の二人連れとは、いったい何者で、何のためにそんなメモを残していったのか、興味深い実例である」と記されている。
その歌
名も高き鼓ヶ滝を望むれば岸辺に咲けるタンポポの花
住吉神社玉津島竹生の御三方の歌の神がなおす
音に聞く鼓ヶ滝を打ち見れば川辺に咲けるタンポポの花
タンポポでも白百合でも・・・後の誰かが詠んだ歌である事は見え見えであるが、川(皮)辺の花がなぜタンポポなのか・・・「鼓の音を、タッポン・タタポポ・タンポポと表現することからきているわけです」「地名の由来は滝のしぶきが谷に響いて鼓を打ったように聞こえたのだろう」と米朝さん。
私がなぜ西行さんに魅せられるのか、真面目に、熱心に考えてみると、時代を超えた不易流行の深層の地下水が山中の巌より湧出の名水となり、それを飲むと言葉では表現しにくいが美味で自己の男としての自分では認識できない集合無意識のある部分を誰かによって(西行さんに)共鳴させられている・・・とは言わないまでも、名曲を聴いた時の忘我の心持に似た感じであるのかもしれない。具体的な例を熟考すれば「霊山登拝中の清水」「山巓の旭日」「大社の神前」等、やはり日本人・男・自分は日本人の男であるとの再認識。
時代は流れても、その様に感じる人々が自己の波動と共震して、不易な何かに感じ入り、それは流行とは言えないまでも、脈々と伝わり、落語や講談のネタにもなったのであろう。
かく書きつのる私も、その波動を感じ、人生において、現代に実現不可能な男の生き様の一つの理想として夢想していることは間違いのない事実である。