役行者石像研究日誌 五 令和2年11月

 令和二年初頭、新型コロナウィルス感染が世界中に拡大、蔓延し、我が国にも種々の困難が生じ、外国に於いても猖獗を極めている。今日此の頃も日常生活に困惑、難渋している。この年の四月、私は脊柱管狭窄症により、長距離の歩行と階段が少し辛くなった。六十歳で始めた調査は早くも七十歳前で活動が鈍り、七十六歳の今日では気力、体力が消耗したのか、ほとんど進展していない。

 予てより、心積りの七十五歳で大和の国大峯山登拝の引退を期して、「平成の大峯山」(平田蘭酔編・著 令和元年九月二十三日発行)が出版できた。第五章には、初期の著名な役行者石像六体(新発表の竹林寺蔵王権現石像三体を含む)の写真と研究日誌(一~四)を提示できた。

 七十一歳で生業を一区切りして、余暇はできたが、初期には像のありそうな修験の山・社寺・峠・街道等探訪に出掛けたものの、年を加える事にその進捗は緩慢となり、興味本位で始めた調査が少し進む程に、行者像が初期に思っていたより、遥かに想像以上の凄い数が存在する、との認識に変わり、半ば少し諦めに似た怠慢の心持になってしまった。

 例えば近くの池の小鮒を見つけて網で掬い取ったようなもので、その池は日本中にある。我国に脈々と流れていた常民の信仰の様相の一端としての修験の尊像たる役行者石像に興味と好奇心を抱き、ライフワークとして一人で取り組んだのであるが、如何せん、広い池に投網を打ったようなものであった。

 折に触れ、御教示を受けたことは多くあったが、共同調査者は得られなかったが、幸運にも七~八年前より,山上ヶ岳登拝の同行者で、私の初心を凌駕する方が出現した。芦田成人氏六十三歳、多数の新発見と調査済の写真を持参される。私の足の届かなかった地域での活躍が目覚しい。(出身地、京都府福知山市)もちろん、文明の力、パソコンを使ってのことだ。私の時代遅れを慮って、長女夫婦がアイパッドなる物をプレゼントしてくれた。多少の想像はしていたが、自身の蒙昧さに愕然とした。私はかなりの懐古趣味で、加速度的物質文明の進展に対応できないのである。

 「いつまでも有ると思うな親と金」川柳を思い出したが、命と健康は有限、私は自分の体力は人並以上との自信を持っていたが、近年不案内の山や、少し危険な場所は躊躇する様になった。石像はもちろん平地にもあるが、行場や峠、山中にあるのだ。

最近「断捨離」とか、古い資料を整理中、再見していると、梅原猛先生の「反時代的密語」(平成十七年)の産経新聞に連載された記事のスクラップがでてきた。私が線を引いた所を再読、この頃は梅原先生に大いなる尊敬と興味を持っていた。その記事の一部を次に紹介。

『反時代的密語』  梅原 猛

・円空の語るもの

私は最澄の始めた白山信仰こそ神仏習合の思想のさきがけであり、それが行基の八幡信仰に受け継がれて国家の宗教になり、空海の真言密教によって仏教の中にとりいれられたと考える。この密教の神仏習合思想が平安時代に修験道として完成される。

  ・日本の伝統とは何か

 改めて私はいいたい。教育勅語は決して日本の伝統に根ざすものではない。教育勅語を復活させるのは、伝統文化を愛さずもっぱら私利を追求する知なき徳なき政治家の言うことを、天皇の命令だといって従わせることになるのではないか。日本人を真に道徳的人間にするには、神仏習合の日本の伝統を深く自覚することによってしか可能ではないと私は思う。

 この再読で驚き、熟考反芻してみた。

・・・・この密教の神仏習合が平安時代に修験道として完成される。

・・・・神仏習合の日本の伝統を深く自覚することによってしか可能ではない。

我田引水の講釈的発想かもしれないが、「神仏習合」このテーマが神でも仏でもない、人間を超越した、歴史上の人物「役行者」ではないか。我々の祖先は神仏習合を自然な流れとして受け入れ、多神教というより、なんでもあり、の多様性のおおらかな信仰となり、山に先祖が坐ます、神奈備、霊山となり、役行者が富士山に登った、又は他の山々に役行者が来訪し山を開いた、との伝承になったのであろう。

 それに加えて、蔵王権現が山上ヶ岳の湧出岩より感得された、と伝えられ、我国特有の尊像が創造されたものであろう。修験にも独自の本尊が必要なのである。

 時代は流れ、室町時代、天文、永禄頃より役行者石像が出現したが、その後江戸時代後半に入って、庶民の参詣、参拝、霊山への登拝も可能になり、信仰、修行以外にも他の様相も加味され、一般大衆に流行したのであろう。そのシンボルとしての役行者石像が各地に作られた。

 昭和の終わりから平成にかけての像は極めて少ないが、十六年前よりの私の石像探しは、今思えば梅原先生の影響もあったのかもしれない。何か見えざる力によって、初期には熱心に近くの(日帰り可能な)山に登り、山中にある寺社を訪ね、各地を散策渉猟していたのであった。ここ数年の調査の進展は先に述べたが、芦田氏に主役をお願いして、私は脇役になる。

龍谷ミュージアムの石川智彦先生に役行者の論文があるが、私の「平成の大峯山」を謹呈させていただいた折、先生より励ましのお言葉を戴いた。先生の論文は私にとっての指針である。

この稿の終わりに私の歌を書きとどめておきたい。

終わりでない終わりに詠む三首(調査研究は続けるが後任に託す意)

    法螺吹きは足腰弱りて山下で山上向けて手向の螺聲

    ゆずるべき時来たりしも楠の若葉か万年青の青か

    道行けば路に種々満ちみちて西の入日に導かれなむ

流れる水は元の水にあらず・齢食ってだんだん解る年の味・老人の気持ち解って本物老人 

 今思い起こせば、大峯山奥駈け修行や、男体山・大山・三徳山等、人生の後半になって同行者の導きもあり登拝できた事は嬉しい。新型コロナウィルスに翻弄されし感のある今年、種々の伝統的催しも縮小、中止を余儀なくされ、オリンピックも延期、日常生活にも目に見えない変化が生じている。インターネット等による情報の多元化・価値感の多様化・物質文明の加速度的変化等、先の戦争も遠い昔に感じられ、今年で三島由紀夫氏の切腹五十年は我々日本人に言葉ではうまく表現できないが、日本、日本人とは何かを再考すべく、大いなる啓発と再認識を思い起させるのである。

 今日、この一文の記する自分がいかに幸せであるかを、かの大峯山最高峰、八経ヶ岳にて勤行の法螺を吹いた瞬間の旭日の輝きを思い起こすのである。

 芦田成人氏の活躍、精進を祈り目的の達成は未知数であるが、私は成るように成るまで、共に力を尽くしたいと思う。

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このブログの著者

昭和19年(1944年)3月24日、大阪府枚方市生まれ。平成の御代、大峯山登拝修行に専念し、75歳で引退。令和元年(2019年)に自身の修験と法螺にまつわる手記をまとめた著書【平成の大峯山】を出版。現在は法螺貝と蘭と酒を愛す毎日。ただいま役行者石像の研究に没頭し、研究成果の出版本を準備中。

法螺貝研究所
〒564-0061 吹田市円山町5-3
TEL.06-6386-6500
メール:hira_hira@iris.eonet.ne.jp

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