葛城二十八宿、日本遺産を機に、大先達膾谷鉄山師の積年の熱意、地元亀井長彦氏始め多数のご助力により、南河内大谷山道場、塩路鐵砲師奔走す。各位のご協力で金剛蔵王大権現石像の再興成る。
令和3年4月4日、亀の瀬龍王社に於いて開眼供養・柴燈大護摩供。当日空模様好ましからず。当地は大阪と奈良の大和街道の重要なる地点、地滑りで有名、古来交易の地とか大和川の水運があったのであろう。近くの山々には山桜が望見できる。
膾谷師の開眼・宮司の奉納の舞・千家の献茶・ディジュリドー(オーストラリアの民族吹奏楽器)・参列者の焼香と式は進行した。下方は望めば悠久の大和川が亀の瀬岩を抱いて流れている。正に我が国の神仏習合の伝統に相応しい行事であった。今般の蔵王権現開眼は令和における歴史的行事の感を深くした。
さて、『大和の石仏』(清水俊明著・昭和49年)では「大和における蔵王権現石像は二体、吉野郡大淀町今木、泉徳寺(永禄12年1567)と生駒郡三郷町山上・・・にあり」平成の終りごろ私が(平田蘭酔)新たに生駒郡有里町竹林寺の裏山に三体発見した。(江戸時代寛延3年1750 他二体)
伝え聞くに、三郷町山上の尊像は元は亀の瀬にあったとか?確証を得ないので断言は控えるが・・・往年の葛城二十八宿の歴史の流れにも変化するのもやむを得ない。それ故再興と称される所以である。
以上のことを鑑みると、稀有の行事であり修験に心を寄せる者にとっては、かの吉野山金峯山寺に聳える蔵王権現の本尊が巨大なる三体の像である歴史に今更ながら驚きと尊崇を感じるのである。
採燈護摩供は葛城修験は言うに及ばず、金峯山・本山・当山の各流派・遠くは日光修験の来訪もあり、多数の行者参集・法螺自慢の面々・立石光正師の総奉行・亀の瀬に螺聲が轟き護摩の煙が立ち上った。
塩路師の表白文にて今日の由来が述べられ、昨年来のコロナ禍の猖獗も早や退散を念じつつ盛大に終了した。最終行事は「仁〇加」=「俄」の奉納、竹春座の得意の演目『勧進帳』である。歌舞伎のパロディーで劇の終わりは「秋祭りの買い物帳」‼となって・・・バンザイバンザイ。
この頃に雨がポツリポツリ参列の方々は足早に帰宅された。予報は雨であったが、辛くも持ち堪えて“天祐”かと安堵した。
令和の新石像建立には
天台寺門宗総本山 園城寺
熊野修験本山 青岸渡寺
の協賛を賜り、永久に亀の瀬に鎮座されるであろう。
〈金剛蔵王権現〉
この山に憤怒の佛祀りしを運命と国原を見つ
歌集『鳥獣獸魚』平成4年9月
前登志夫(吉野山中繭菴)歌人
亀の瀬に集い人が令和にて蔵王の心日本の魂
平田蘭酔
令和3年4月吉日
【追記】
葛城二十八宿 亀の瀬 蔵王権現由来
令和の世に〈蔵王権現〉知る人少なし。
「金剛薩埵の変化身であるため金剛蔵王権現とも言われ、修験道における主尊、役小角により感得された・・・」『修験道辞典』(宮家準編)
「大和には泉徳寺と信貴山の東南三郷町山上に二点しかない貴重な石仏」
『大和の石仏』(清水俊明)
さて、この石仏(三郷町山上)元は亀の瀬にあったと?何のご縁で三郷町に祀られたか?地崩れか?発見されて山上に・・・その後又もや紛失、不明となり発見され・・・再度その様な事のないように厳重に保管されたと聞く。(諸本で得た情報と人の話を考慮)この事情を知る人はもういないと思う。(地元の人に話しても理解されなかったとの事です)
今般、像を元の所に戻す事不可能、複製するも困難。膾谷師積年の宿願、塩路師熟慮して新たなる線刻の尊像を図示し、有難きご縁にてサヌカイトの名石を得て完成。像の下には由緒ある鏡も埋納された。我が国の神仏習合の長き歴史に於いて令和での修験の特筆すべき行事であろう。記念すべき採燈護摩、その後にも役行者石像が奉納された。
令和6年4月17日
亀の瀬入峯高祖像開眼慶讃
令和7年4月17日
亀の瀬龍王社に於いて
境内弘法大師祠落慶
石鳥居扁額奉掲慶讃
採燈大護摩が執り行われた。
この行事に先立って、龍王社参道に金の鳥居も完成し、古銘木を用いた大扁額『阿字門』が塩路鐵砲水師の雅趣・老練の作として末永く伝えられるであろう。
令和7年11月26日